陣馬街道と陣馬山。恩方地域の歴史と文化をたどる

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陣馬街道は、甲州街道の追分交差点から和田峠を経て、神奈川県相模原市緑区の藤野地域までを結ぶ街道です。ここでは陣馬街道にまつわる逸話を取り上げつつ、恩方地域の歴史も掘り下げてみます。

陣馬街道とは?

陣馬街道は、街道沿いにある地域名から「恩方街道」「佐野川往還」「案下(あんげ)道」、また甲州街道と別に甲斐国に向かうルートとして利用されていたことから、「甲州脇往還」「甲州裏街道」など、多くの別称があります。古くから武蔵と甲斐をつなぎ、甲州や恩方などの山の産物を江戸へ運ぶための重要な交易路でもありました。 そのため江戸時代には、上恩方町の高留に出入りを取り締まる口留番所が置かれていました。都の通称道路名として「陣馬街道」という呼称が使用されるようになったのは1963(昭和38)年のことです。

街道の起点となるのは、甲州街道の追分交差点。脇に建つ江戸時代の道標には「右あんげ道」と刻まれています。南浅川を越え、元八王子地域を経て、切り通しを境に恩方地域に入ります。

かつてはのどかな農村地帯でしたが、1969年に繊維工業団地が完成し、陵北大橋が竣工した後の1973年に宝生寺団地の入居がスタート。1983年には小田野トンネルが開通するなど、街道沿いは少しずつ発展し、チェーン店なども出店して賑やかになっていきました。

恩方の地域文化

宝生寺や観栖寺、宮尾神社には、童謡「夕焼小焼」にまつわる碑が建っています。毎日夕方のチャイムで流れ、八王子市民の誰もが口ずさめるこの曲は、上恩方出身の中村雨紅(本名・高井宮吉)が1923(大正12)年に作詞しました。日暮里で教員時代を送っていた中村は、児童の情操教育のため、童話・童謡の執筆に励んでいました。この曲は故郷への帰り道の情景を詩にしたものといわれています。

中村雨紅の墓

宝生寺の「夕焼小焼の鐘」の碑

また、恩方地域では大正時代から地元青年たちによる地域研究が活発に行われました。特に恩方村青年団は農村文化の振興に邁進し、『緑土』という団報を発行するなどして積極的に外部へ発信を続けました。彼らの活動に関心を寄せて、折口信夫や中村星湖、小田内通敏、今和次郎の他、多くの文人や研究者が恩方地域を訪れています。

戦後に至っても、地域の研究は積極的に進められ、恩方の文化を紹介した書籍が続々と発行されました。彼らがこうした交流のために往来していたのが、陣馬街道だったのです。

陣馬山

陣馬街道の中間地点、神奈川県との境には、八王子市内で2番目に高い山、陣馬山がそびえています。一説には、戦国時代に北条氏が甲斐の武田氏と対陣していたことから「陣張山」と呼ばれるようになり、後に「陣場山」と名付けられたと伝えられています。

1956年、「陣場観光協会」が設立され、高尾と並ぶ観光地化を目指していきます。その中心にいたのが京王帝都電鉄で、観光客へのイメージアップを図るため、陣場山から景信山周辺を「陣馬高原」と名付けます。山頂には富士山に向かっていななく「白馬の像」が建てられ、「陣馬山」という名称が定着していきました。

陣馬高原下からの登山口

新ハイキングコースからの入口

陣馬山は「関東の富士見100景」に選ばれた関東屈指の好展望の山で、山頂からは360度の大パノラマが楽しめます。高尾駅から「陣馬高原下」行きバスで終点下車(約40分)し、山頂までは徒歩約90分。藤野駅や高尾山からの登山コースもあり、登山初心者でも登ることのできる行楽向きの山として、季節を問わず多くのハイカーで賑わっています。

山頂の碑

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