400年前にタワマン時代を見越していた?大久保長安の都市計画を聞く【はちんちゅ vol.6】

400年前にタワマン時代を見越していた?大久保長安の都市計画を聞く【はちんちゅ vol.6】

八王子をルーツに活躍する人に迫る企画『はちんちゅ(八王子人)』。第6回は、大久保長安の功績をたたえ、伝える「大久保長安の会」会長・鈴木泰さん。『ブラタモリ』八王子編にもご出演された鈴木さんに、400年前の地割りが今の街にどう生きているのかを伺いました。

鈴木 泰(すずき やすし)

八王子市役所で建設・産業振興に長く従事。退職後は郷土史の継承に取り組み、「大久保長安の会」会長として街歩きやイベントを通じて八王子の歴史の魅力を発信。専門家と市民をつなぐ役割を担い、地域の記憶を次世代へ伝えている。

歴史の空白を埋める「語り部」として

――まずは鈴木さんの自己紹介をお願いします。大久保長安の会の会長になられた経緯を教えてください?

私は元々、八王子市役所に長く勤めていました。60歳で定年を迎えた後、ベンチャー企業の支援などを経て、今はフリーのような状態です。実は八王子には、かつて素晴らしい郷土史家の方々がたくさんいたんです。しかし、ここ10年ほどで皆さんが天寿を全うされてしまい、八王子の歴史を分かりやすく語れる人がいなくなってしまった。そこで、私にお鉢が回ってきたのがきっかけです。

――市役所時代から歴史に関わっていたのですか?

いえ、どちらかというと「建設」や「産業振興」が長かったです。都市計画への興味から、戦災復興などの近現代史を独自に調べてはいましたが、いわゆる歴史学者ではありません。ただ、素晴らしい先生方と出会い、専門家の知見をお借りしながら、それをわかりやすく皆さんに伝える「つなぎ役」が仕事かな、と思っています。

大久保長安ここがすごい!スーパーエリート官僚

――今回のメインテーマである「大久保長安」について教えてください。

大久保長安は、徳川家康の家臣であり、八王子の街づくりの基礎を作った人物です。八王子の歴史は約900年ありますが、長安はそのだいたい中間、約420年前の人ですね。

――そもそも、八王子の歴史っていつから始まったんですか?

歴史上、八王子に初めて文字の記録が現れるのは今から約900年前、12世紀のことです。中山の白山神社(絹ケ丘の南側)から発掘された経筒(きょうづつ)の中に、「仁平(にんぺい)4年(1154年)」と記されたお経が見つかりました。これが八王子の歴史の確かなスタート地点です。それ以前は考古学の世界や断片的な記録になりますね。そこから約450年経って現れたのが大久保長安です。

――なるほど、いわば折り返し地点に現れたのが長安なんですね。

はい。彼は死後に横領の疑いをかけられ、家は断絶。「天下の悪人」というレッテルを貼られてしまいましたが、実はこれ、完全な冤罪なんです。

――冤罪だったのですか?

死後350年も経ってから発見された文書に、彼が亡くなる直前の言葉として「私は材木一本たりとも私有したことはございません」と記されていたんです。それに、彼が開発に関わった佐渡金山や石見銀山では、彼の死後100年、200年経ってから、なんと幕府の役人が長安の顕彰碑を建てているんですよ。本当に悪人だったらありえない話ですよね。地元の人たちは彼の功績をちゃんと理解していたんです。

男の子ども七人は切腹となっていますが。彼の部下で金銀山や木曽の山林など実際に仕切っていた人はほとんど「お叱り」だけで死罪などになっていません。

佐渡相川金山「道遊の割戸」

――具体的にはどのような仕事をしていたのですか?

彼はただの地方代官ではありません。全国の金山・銀山を統括し、街道を整備し、街を作った。家康政権の年寄衆、いわば閣僚です。現代で言えば、「財務大臣」と「経済産業大臣」と「国土交通大臣」を一人で兼任しているようなものです。徳川幕府の財政基盤とインフラ整備の大部分に関わっています。日本史上稀に見る「超天才実務官僚」だったんですよ。

400年前の「地割り」が現代のタワマンを支えている!?

――そんなすごい人が八王子の街を作ったんですね。

そうです。彼の合理主義と実践能力は、八王子の都市計画にも遺憾なく発揮されています。特に彼が行った「地割り(区画整理)」は時代に先んじていました。例えば、甲州街道沿いの区画。当時の高度な測量技術を駆使して、間口は最小2間(約3.6m)、多くは4間(約7.2m)×奥行き40間(約70m)程度という、細長ーい「うなぎの寝床」のような土地を大通りの両側にズラッと並べたんです。

元禄時代(17世紀末)の八王子宿。A長安陣屋跡(推定)、B代官屋敷跡(推定)、C宿場(百姓屋敷) (八王子郷土資料館所蔵 新野家文書)。C宿場部分は大通りから裏通りまで幅2間から4間で細かく区画割されていた

また、大通り、後の甲州街道に面した通りの南北を同じ町とする両側町という形式にしました。この形は秀吉が京都をそれまでの正方形の区画から長方形に変えたのとほぼ同じタイミングで、当時の最新の都市計画だったんです。後に江戸城下でも日本橋などで両側町がつくられます。

文化・文政期(19世紀初め)の八王子宿鳥観図(新編武蔵風土記稿より)

――ものすごく細長いですね。

そう、一軒家には少し使いにくいかもしれません。ですが細かな地割をして土地の面積を押さえることでたくさんの人を集めやすくする、実際にはそれにこだわらないで有力者は当初から3軒分、4軒分などの広い土地を使っています。きっちりした構想と柔軟性を併せ持っていたんですね。

この形のメリットは家が全て表通りに面することができること。道路が町の真ん中なので清掃や軽微な普請などは町人が協力して行いました。その路上で横山宿では四のつく日、八日市宿では八のつく日に市が開かれました。毎月6回なので「六斎市(ろくさいいち)」といいます。店を開く商人からそれぞれの家に間口に応じて場所代が支払われました。

織物市の賑わい。桑都日記より(極楽寺所蔵)

でも、この「奥行き40間(約70m)」というのがいい寸法でした。現代において、この形状の土地を3つほど束ねるとどうなると思いますか?マンション用地として充分になるんです。幅が広がり、奥行きがたっぷりあるので、大きな建物が建てられる。表通り側が玄関、裏通りが通用口になるのは宿場時代と同じです。今、八王子にタワーマンションや大きなビルが建っているのは、長安が400年前に作ったこの「地割り」がベースにあるからなんです。基本設計(OS)が優秀すぎて、400年間フルモデルチェンジせずにやってこれちゃったんですよ。

八王子での新しい暮らしを体感!『ルネタワー八王子』のショールームがすごかった。

公開日: 2025.10.17

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四度生まれ変わった「不死鳥の街」八王子

――400年間地割が大きく変わっていないというのは驚きです。

八王子は作られたときから四度生まれ変わっています。それをささえたのは広域交通の拠点性でした。市がにぎわったのも遠くからモノや人々が集まりやすかったからですね。四度とは…

①江戸初期:大久保長安による「市場町」「代官町」「軍事都市」としての建設。
②江戸中期~明治初期:代官が江戸に引き上げられ、徳川幕府ができて軍事的緊張もなくなり「甲州街道の宿場町」となり、六斎市は引き続き繁栄し織物の取引が盛んになる。
③明治中期から昭和:明治大火で65%が焼失。宿場町から織物産業とその取引、織物産業従事者や近隣地域を商圏とした「商工都市」として再生。表通りは宿場から商店街、周辺は繊維工場へ。第二次世界大戦の空襲で85%が焼失したが商工都市の性格は引き継ぐ。
④現代:表通りは商店街から「マンション (タワマン)」+商店へ変貌し、工業は郊外へ。

特に明治大火と昭和の戦災で街は二度焼け野原になりました。でも、長安が作った「道路と地割り」という骨格がしっかりしていたおかげで、街はすぐに元の形で復興できたんです。「八王子は衰退した」なんて言う人もいますが、とんでもない。産業構造を変えながら、人口も増え、建物も更新され続けている。非常にタフな街なんですよ。

400年前の「骨格」を感じる

――八王子は甲州街道の「宿場町」というイメージが強いですが。

実は、大久保長安が作った当初は「宿場町」ではなく「市場町」でした。甲州街道が整備されるのは、街ができてからもっと後の話なんです。当時は小仏峠の向こうは敵国(豊臣側)でしたから、東西の交通より、北関東と東海道方面を結ぶ「南北交通」がメインでした。民生では情報や物資が集まる交易地として八王子は機能していたんです。

八王子宿のようす。八王子名勝志より(八王子郷土資料館発行)

――なるほど、物流拠点だったんですね。

そうです。平和な時代は人が集まり、商談が行われる。すると、単に旅人が泊まるだけの宿ではなく、商人たちをもてなすための「接待文化」が必要になります。それが八王子の花街(かがい)や芸者衆、料亭文化のルーツなんです。八王子の産業が発展したのは、こうした「おもてなしの機能」が街に備わっていたからこそなんですよ。

――最後に、読者へメッセージをお願いします。

八王子の街を歩くときは、建物の新しさだけでなく、その下にある「土地の形」にも注目してみてください。明治の大火や戦災で建物はなくなりましたが、長安が400年前に引いた「地割り(区画)」は今も大きくは変わっていません。

一見すると普通のビル街やマンション群に見えるかもしれませんが、その足元には400年前の都市計画という「骨格」が埋まっています。「高尾山だけじゃない八王子」の深みを知ると、見慣れた景色が全く違って見えてきますよ。ぜひ、そんなディープな視点で街を歩いてみてください。

高層マンションの建設が進む甲州街道沿い


八王子ジャーニー編集部

鈴木会長のお話を聞いて、見慣れた甲州街道の景色がガラリと変わって見えました。タワマンの登場を400年前に予言していたのでは?と思えてくるほど。八王子の街のことをもっと知りたい、もっと好きになるインタビューでした。

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