明治26年に東京府に移管!?「八王子は神奈川県だった」という話

明治26年に東京府に移管!?「八王子は神奈川県だった」という話

八王子の近代史において「八王子は神奈川県だった」という事実は最も興味深い事実の一つです。このことを「知らない」という人もいたので、改めてまとめてみました。まずは神奈川県八王子という文字が残っている証拠探しから。

一枚の領収書

「神奈川県八王子……」と書かれた石碑や建物(の説明)などがどこかにあるだろうと高を括って調べ始めたものの、これが意外に無い!(ご存知の方は編集局まで)

そこで、向かったのが「はちはく」(サザンスカイタワー3階)。学芸員の方に事情を説明すると「物はないですが、写真なら」と提示してくれたのが一枚の領収書です。

八王子織物染色講習所寄附金領収書

八王子織物染色講習所寄附金領収書明治20年(1887)
『八王子の産業ことはじめ』(八王子市教育委員会発行・同郷土資料館編集)より

確かに『神奈川縣武蔵國八王子』と書かれています。発行は明治20年ですから、東京府に移管する6年前。領収書は、その年に設立された『八王子染色講習所』が、下椚田村の金子小一郎という人の寄付に対して発行したもので、よく見ると、生糸の生産や織物に関するイラストがデザインされています。

ちなみに、同講習所は、八王子工業高校(現在の桑志高校)の前身で、ものづくりの街、八王子の歴史の1ページと言える、この領収書そのものが貴重な資料でもあります。

八王子染色講習所は、桑志高校の前身

明治新政府の富国強兵、殖産興業政策の元、全国で官設の博覧会や共進会(優劣を競う品評会)が開催されました。しかし、明治10年代の八王子では、輸入された粗悪な化学染料をむやみに用いたため、品質が低下し、市場から締め出され、明治18年の共進会でも全く不振でした。

これに奮起した仲買商や機業家(製造業者)らが中心となって、明治19年に八王子織物組合を結成し、その翌年に開設したのが『八王子染色講習所』です。そこに、当時の日本の染色の第一人者を招へいし、技術向上を果たしたのです。

八王子染色講習所は、明治28年に『私立八王子織染(しょくせん)学校』となり、明治36年には東京府に移管され『東京府立織染学校』となり、後の『八王子工業高等学校』になります。更に、平成19年に第二商業高等学校と発展的に統合し、現在の『八王子桑志高等学校』が開校。(市資料要約)

神奈川から東京へ

話を移管問題に戻します。明治4年に行われた廃藩置県。当初は藩をそのまま県に置き換えたため3府302県もありました。その後、統合を繰り返し、明治22年には3府42県と落ち着くのですが、八王子(多摩)が東京府に移管するのはその後の事です。 きっかけは水です。東京の上水路(上水路とは、人工的に造られた水を流すための構造物)の7割は神奈川県にあり、直接管理できていない状況でした。そして明治19年のコレラの大流行。

東京府は、玉川上水と水源地を含む西多摩郡、北多摩郡の移管を願い出ますが却下。その後、明治25年、東京府が再度移管を主張すると、神奈川県知事・内海忠勝が意外にも「南多摩も含めて東京に」と。その理由は、八王子を含む南多摩は、板垣退助らが設立した自由党(自由民権運動)の勢力が強く、県知事と対立していたから。一方、甲武線(現、中央線)が明治22年、八王子まで延伸されるなど経済的にも東京との結びつきは強くなり、明治26年、三多摩(西・南・北多摩)は東京府に移管。

その後も、神奈川県に戻す案、武蔵県構想、多摩県として独立させる案もありました。もしかしたら「多摩県八王子市」だったかも。(中塚)

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地域情報紙「よみっこ」

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